三浦佑之 WEB-SITE

三浦佑之著『村落伝承論 『遠野物語』から』 序章 (旧版)
   (刊行本とは表現に若干の違いがあるかもしれません)



  村は、今、どのようにして<村>でありうるのであろうか。去年の冬、豪雪地帯として名高い新潟の山村への“雪下ろしツアー”が企画され、予想をはるかに上回る応募があって大盛況だったというニュースに接して驚いた。しかも、その企画は、過疎に悩む村当局の、苦肉の策であったという。村が、そのように考えたというのは、ある意味でよくわかる。それによって、過疎で沈滞した村を活性化させようとするのは、藁にもすがる思いであったに違いない。そして、ひとまず、その目論見は成功したといえるだろう。日本海側の人々にとって、雪がいかなるものであるかということが、ツアーに参加した人たちに、ほんの少しだけでも体験してもらうことができたのだから。私が気になったことは、そのツアーに応募した人々のことである。彼らは、どんな思いでツアーに応募し、どのような気持ちで電車に乗り、現地で雪を下ろしながら何を考えていたのだろうか。
  彼らは、自分を都会の人間だと意識していたのだろうか。あるいは、雪が珍しい南の地方から東京に住み着いた人たちだったのであろうか。一泊か二泊の旅が、彼らの多くの心の奥に眠っているに違いない、源郷としての村落への思いを、目覚めさせることがあったのであろうか。
  あまりにも傲慢なと思える、都市に住む人々のレジャーとしての雪下ろしのニュースにあきれ果てるとともに、それを企画したのが豪雪の村の村人であるという点で、村落のしたたかさも同時に感じ取ることができた。たぶん、そのしたたかさがあるかぎり、その村が滅び去ってしまうことはないだろう。しかし、それによって村落が発展してゆくということは決して起こりそうもない。そんな一時的な企画で村が活性化するなんてとても考えられないということは、だれでもわかっていることなのだから。
  夏、離村して朽ち果てそうな空き家が別荘がわりに利用され、やはり、都会の中流たちに喜ばれているとも聞く。そんな家で夏を過ごしていて、恐ろしいことが起きないのだろうか。人が住まなくなって荒れ果てた家の、煤にまみれた屋根裏や奥まった部屋から、もろもろの物たちが夜中になると蠢き出してくるという心配はないのだろうか。プレハブやモルタルの箱の、消費物としての家に住んで、化学合成された香水を振りまきながら、家の歴史やその家毎の匂いを消すことだけに精をだす人たちにとって、家の歴史を刻んでいたはずの空き家は単なる箱にしか過ぎなくて、家の神や、屋敷神や、座敷童子や、その家で死んでいった先祖たちの魂など、もはや昔話の世界にしか住んでいないということなのか。もちろん、私にとっても、それらはほとんど観念の世界のものでしかない。でありながら、空き家になった古い家で、夜は過ごせない。
  村が、都市に住む者たちにとって<美しき里>になり、<心の故郷>になったとき、雪下ろしや空き家がレジャーの対象になってゆくのに違いない。間違いなく、そうした意識が生じてくるのは、村落が壊滅の危機に瀕した現代の現象だといってよいだろう。というより、今、村落は崩壊したのだといってもよい。村落は、いつの時代にも不安定で危機に瀕して、村落としてあったのだというべきなのである。そのとき、村を捨てて都市に流れてゆく者たちにとって、村は決して<美しき故郷>などではありえない。懐かしさと憎しみが渾然とした源郷でしかないだろう。だから、都市はいつも村を、恐れと憧れの目で見ていたのだし、村落も、都市を恐れと憧れの<異郷>として対峙し、そうした関係性によって、都市も村落も活性化され続けていったのである。ことに、近代における村落は、都市に支えられてしか存在しえない共同体であった。そして、近代の、その都市と村とを結ぶ象徴的存在が、くまなく張り廻らされた鉄路だった。
  上り列車に乗って都市に出てきた人たちによって、都市は繁栄した。そして、そうであることによって逆に、都市は、村落にとっての<異郷>となり、憧れの世界になっていった。人々を迎え入れ、金や物を還流させる経済力をもった都市によって、村落は活性化され、人々は都市への憧れと恐れをいよいよ増幅させていったのである。しかし、その<異郷>は、村落を活性化させるための外部として共同体の内部から生み出されていった、前近代の<異郷>とは違って、強引に収奪しつづけるものとしての外部であった。都市とは、あくまでも近代国家の側のものだったのであり、村落はそこに引きずり込まれてしか存在しえない、受動的な立場に追いこまれていったのが近代という国家なのだということである。だから、村落は都市に、限りなく吸い取られ、都市に包みこまれてしか存在しえないものへと、変貌を余儀なくさせられていったのである。つまり、近代とは、村落の崩壊を代償として肥大化した都市だけが人間の社会であるかのような時代なのだといってよい。鉄道は、村落から都市へと人びとを運ぶ人買い列車という役割を担っていた。
  今、ローカル赤字線の鉄路が剥ぎとられている。それは、近代のひとつの終焉を意味しているだろう。都市にとって(あるいは国家にとって)、村落はもう収奪の対象としての価値をなくしてしまったのだ。だから、運賃収入だけを前面に押し立てた経済効率論が幅をきかすことができるのである。
  かろうじて残る村落は鉄道の廃止でどうなるか。その結果は目に見えている。過疎化に拍車をかけて、完全に村落の息の根をとめてしまうだろう。“雪下ろしツアー”を企画する村落のしたたかさをもってしても、村をもちこたえさせることはできなくなるかもしれない。近代の、都市に吸引されてしか存立しえない村落作りに加担した鉄道は、近代の村落の側に立っていえば、希望の星でもあったのだ。内部維持装置としての<異郷>の代替物となった都市は、村落にとって恐ろしき世界であるとともに、村落に富をもたらしてくれる豊饒の地として憧れの世界でもあったからである。その<異郷>と村とを直接繋いでいるものが鉄道だった。だから、鉄路の先に<異郷>があるという幻想が、近代の村落に生きることの根拠にもなったのである。それを剥ぎとってしまうという行為は、村落を潰してしまうこと以外にはほとんど何の意味も持たないだろう。いくらアスファルトで固めてみても、道路は、村落と<異郷>を繋ぐものにはならない。村と隣の村、そこと隣町とを繋ぐものが道路で、それは、どこまで辿っていっても<異郷>に行きつくものではないからである。高速道路も鉄道の代わりをすることはできない。それは新幹線と同じで、東京と地方の都市とを繋ぐだけで、小さな町や村は、はじめから無視されてしまっているのである。
  もう、ほとんど収奪するもののなくなってしまった村落は、今、完全に切って捨てられる。都市は、村落を相手どることをとうの昔にやめてしまい、内部の弱き者に目を向けはじめ、そこに彼らの活性源を求めている。あるいは、地方の時代と称して、大都市は周辺や地方の小都市を相手にしてゆく。だから、無視された村落は、雪下ろしツアーや空き家別荘など、都市に住む人たちのストレスをほんの一瞬だけでも忘れさせてくれる<レジャー・ランド>でありさえすればよいのである。そこは、積み重ねられた歴史も恐ろしきものも人々の生活する匂いも感じる必要のないところなのである。

  もういちど問おう。村落を<美しきもの>にしたのは、だれだったのだ、と。
  大正十一年、十九歳で夭逝したアイヌの少女が、十八歳のときに遺した次のような文章を思い出す。


  其の昔此の広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活してゐた彼等は、真に自然の寵児、何と云ふ幸福な人たちであつたでせう。
  冬の陸には林野をおほふ深雪を蹴つて、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟かな陽の光を浴びて、永久に囀づる小鳥と共に歌ひ暮して蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穂揃ふすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ。嗚呼何といふ楽しい生活でせう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、此の地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
  太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて野辺に山辺に嬉々として暮してゐた多くの民の行方も又何処。僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。而も其の眼からは一挙一動宗教的観念に支配されてゐた昔の人の美しい魂の輝きは失はれて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、何といふ悲しい名前を私たちは持つてゐるのでせう。 
〔以下、省略〕   (知里幸恵『アイヌ神謡集』序 1923年 郷土研究社。岩波文庫再刊)


  近代国家に凌辱された民にとって、楽しく美しきコタンは<昔>にしか存在しない。そして、その<昔>は、<今>の生活の根拠としての神話的な<昔>ではない。
  神話的にいえば、<昔>のある出来ごとによって、渾沌の大地は、秩序ある世界に変貌する。そのとき、村落にとっての<昔>の出来ごとは、始源から続く村落の<今>を保証するものとなるのである。神話的に<昔>に生じた始源の出来ごとによって獲得された楽しき村は、本来的にいえば、村落の<今>と<未来>の豊かさを保証するものであることにおいて、村落の起源としての<昔>になるのである。その神話に守られて人々の生活は安定したものとして持続する。外からみてその生活が貧しくとも苦しくとも、それが始源の出来ごとに保証されてある限り、村落にとっては、豊かで楽しいものとして今も未来も続くのである。
  知里幸恵が思い描いた<昔>は、決してそうした<昔>ではない。それとは逆の<昔>なのだというべきだろう。きわめて感情を抑制したもの言いのなかで彼女が見つめている<今>は、恐ろしき外部に踏みにじられた大地とそこに住み続けている同胞たちとであった。「亡びゆくもの」である幸恵自身も含めたそれらと、病に犯されて死に向かう個体としての自分の運命とがそこでは重ねられていたに違いない。だから、彼女が見つめた<昔>は、あまりに惨めな<今>の向こう側に、願望として想い描かれた<昔>なのであり、<今>とは全く無縁な<昔>なのである。そのように、<今>に繋がることのない絶望的な<昔>しか持てないというところに、彼女とそのウタリとが置かれた<今>の現実があったということである。
  和人(シャモ)の侵略が本格化する以前、北海道(これは近代国家の側から名付けられた呼び名でしかないのだが)の大地に住むアイヌの飽和人口は、二万八千から三万二千程度で、その数は江戸時代を通してあまり変わることがなかったという(大井晴男編『シンポジウム・オホーツク文化の諸問題』(1982年 学生社)における大塚和義の発言)。つまり、あの広さを持ちながら、狩猟採集民であるアイヌがぎりぎりの生活を保つことのできる人口がその程度だったということをみても、我々の側からいえば、極めて貧しい生活であっただろうということは、容易に想像することができる。でありながら、たぶん、その生活はかれらにとって、決して貧しく苦しいものではなかったはずなのである。もちろん、厳しく苦しいものであるということは当然だったとしても、その生活が、始源の時から与えられ<今>に続くものである限り、豊かに保証された生活でもあり続けたはずだからである。熊を狩り、鮭を取り、ウバユリを採集する日常は、それらが、彼らに与えられることになった始源としての<昔>の出来ごととともに、彼らの<今>と<未来>から離れてゆくことはない。不安定でありながら、安定した生活は、そのようにして、彼らのものであり続けるし、そうあり続けなくてはならないものでもあったのである。
  もちろん、アイヌだけがそのようにあったのではない。前近代の村落は、どこでも、いつの時代にもそのようにしてあったのである。そのようにしてしか村落はありえなかったのだと言ったほうがよいかもしれない。村落の昔が、楽しく豊かであったなどと考えないほうがよいし、そこに住む人たちが心優しい善人ばかりだったなどと、けっして考えるべきではない。同様に、村はいつも飢饉に襲われ続け、人の心は余裕もなく荒れすさんでいたというふうにも考えるべきではない。豊かな時も飢饉の時もあって、優しい人も意地悪な人もいて、それが村落であったのだ。ただ、村落が真に村落であったとき、その生活は、いつも、始源の<昔>に根拠づけられてあったのだということが大事なことである。
  この書物で私が考えてゆこうとすることは、そうしたことどもである。<村は、どのようにして村としてあったのか、人は、どのような存在として村落に生きていたのか>
  なぜそのようなことを問うてみるのだと聞かれれば、<村を捨てた者>として、今、東京という大都市の只中に暮らしているということに対する、普段はほとんど意識のうちに上ってくることのない、私という存在の確認作業なのかもしれない、と答えるだろう。

  村落とそこに住む人々を考えようとするこの書物の柱に、『遠野物語』を据える。いうまでもなく、『遠野物語』は遠野の人佐々木喜善(鏡石)の語った遠野とその周辺の山村に語り継がれていた伝承をもとに、柳田国男の筆録によって成った作品である。「物語」という題名が象徴しているように、この作品は、分類すれば、文学作品というべきものである。民俗学の記念碑的な作品として評価されるけれども、どこまで忠実な村落伝承の記録であるのかという点にこだわれば、そこには大きな疑問があり、最近も、岩本由輝が、佐々木喜善の友人である小説家水野葉舟の書き残した作品などとの比較によって、具体的な、『遠野物語』の検証作業を行っており(岩本由輝『もう一つの遠野物語』(1983年 刀水書房。その他)、それを見ても、『遠野物語』を単に、忠実な村の伝承とは見られないということは、よくわかる。
  私がここで考えようとしていることは、民俗学的な村落論ではないし、社会学としての村人論でもない。説話学(こういう学問ジャンルが確立しているかどうかはひとまず措いて)からの村落論・村人論を、ここでは目指しているのである。そのとき、柳田国男の筆録の問題も含めて、『遠野物語』は魅力的な素材なのである。明治四十三年に出版されたこの書物には、近代と前近代との狭間に置かれた村落の伝承がいかなるものであったのか、ということを伺い知ることのできる説話に充ち溢れている。ある場合には、そこに村落の起源にかかわる神話が読めるし、ある伝承は、村落に生きる人々の醜さや脅えを充分に読みとらせてくれるのである。それが、どのような筆録の過程を経ていたとしても、『遠野物語』の根底には、村落があると見ることができるし、近代が影を落としながら、前近代の村落の語りを垣間見させてもくれるのである。
  柳田国男の提唱した日本民俗学という学問が確立した以後に、村落の伝承を採集した資料集は多く出版されており、学問的にいえば『遠野物語』よりも厳密な仕事は多いのだが、柳田自身の昔話と伝説との厳重なジャンル論の影響などによって、採録の段階で取捨選択された書物がほとんどという状況を生んでいった。とくに、言語表現の面では昔話を重く見る傾向が強いため、いわゆる伝説がまとめられ、言語表現の問題として扱われるということが少ないし、資料集などもあまり見られないのである。そうした現状において、伝承に対する民俗学的な区分をそれほど明確にもたない時代の、ある一地域の伝承群を集めた『遠野物語』という作品は、村落において言語伝承がどのようにあったかということを考えてゆく際には、重要な意味をもつのである。神話も伝説も昔話も混在して、この作品はあるのである。インフォーマント佐々木喜善によって取捨されているであろうし、筆録者柳田国男によって村落のとは別の言語秩序が与えられているであろうが、それでも、『遠野物語』には、前近代と近代との狭間に置かれた山深い村落の伝承の一つの<総体>が見えているはずなのである。
  こうした理由によって、『遠野物語』を中心に据えて論じてゆくのだが、『遠野物語』論を展開してゆくのではない。『遠野物語』の一つ一つの伝承を通して浮かびあがってくる普遍的な村落の伝承のありようを考えてゆきたいのである。伝承のなかの村落はどのようにあり、人はどのように伝承の村人となってゆくのか、ということである。

  説話(伝承)は、あくまでも言語表現として存在するし、それ以外では決してありえない。そこから村落や村人を読み取ることはできるけれども、そこに抽出された村や人は、どこまでいっても、<表現>としての村落であり<表現>としての人々でしかないのである。このことは、じゅうぶん注意しておいたほうがよい。言葉によって語られた村落は、表現の論理のなかに存在する村落でしかなくて、現実の村落がそこにありのままに見えるというのではないのである。そのことをもっと追い詰めて言えば、現実なんて実はどこにもありはしないのだ、ということもできるかもしれない。私たちが現実であるかのように読み取っている村落や人々の出来ごとが、言語表現を介して与えられたものである限り、それは<言語世界の現実>以外の何物でもないからである。
  しかし、その<言語世界の現実>が村落の幻想の言語化であるということにおいて、説話に描かれたそれぞれの出来ごとは、<現実>以上に村落とそこに住む人々を浮かび上がらせているものでもあるのである。残された作品としての『遠野物語』のそれぞれの伝承をどのように解読することによって、<言語世界の現実>としての村落と村人をどのように抽出できるか、それが本書のテーマである。
  だから、この書物は<村落伝承論>であって、それ以外の何物でもないのだということを、はじめに断っておく。人類学や民俗学からの村落論が盛んに試みられている現在、文学研究の側から村落とその伝承への斬り結びを試みる書物が一冊ぐらいあってもよいのではないか、という思いからこの書物は出発している。村が徹底的に痛めつけられている今、よけいにそのように考えるのである。







Copyright (C) MIURA Sukeyuki.All rights reserved.