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三浦佑之著『浦島太郎の文学史』 序章
     (刊行本とは表現などに若干の違いがあるかもしれません)


 いつ初めて聞いたのかは覚えていない。たぶん、祖母か母から小さい頃に聞いたいくつかの昔話のひとつに「浦島太郎」も含まれていたのだろう。そのあともいろんな機会に聞いたり絵本で読んだりすることがあって、いわゆる五大お伽話と呼ばれる「桃太郎」「猿蟹合戦」「舌切り雀」「花咲爺」「かちかち山」とともに、「浦島太郎」という昔話は私にとってもっとも親しみ深い、日本の昔話を代表する一話になっている。それは、たぶんほとんどの人に共通した幼児体験であるに違いない。現在の日本人で「浦島太郎」の昔話を知らないという人は、まず誰もいないはずである。しかも、若い学生たちから年配の人たちまで、北国の人たちも南の島に住む人でも、誰に聞いても、「浦島太郎」という昔話はそれほど大きな違いをもたず、全国共通の内容で語られているのである。

 
昔々、ある所に、浦島太郎という貧しいけれどもやさしくて働きものの若い漁師が母と二人で暮らしていました。
  ある日、太郎が浜を通りかかると、子供たちが小さな亀をつかまえていじめていました。かわいそうに思った太郎は、亀を放してやるように頼みましたが、子供たちは承知しませ んので、持っていたお金で亀を買いとり、海に放してやりました。
  それから二、三日たって、太郎が海に出て釣りをしていると、 「浦島さん、浦島さん」と呼ぶ声がし、そこには、この前助けてやった亀がいました。
  「この前は危ないところを助けていただいてありがとうございました。お礼に、あなたを龍宮城に連れていってあげましょう。どうぞ私の背中にお乗りください」と言いました。太郎はおどろき、母のことも心配だったのでためらいましたが、すばらしい世界だとうわさに聞いている龍宮城へ行ってみたいという気持ちが強く、しばらくの間ならと亀の申し出をうけることにしました。そこで、太郎がすすめられるままに亀の背中にまたがると、亀は海に向かって泳ぎだし、あっという間に海の底の龍宮城に着きました。
  そこは今までに見たこともないようなすばらしいところで、立派な門のある大きな宮殿が立っていました。太郎は、その宮殿の奥に案内され、乙姫さまに会いました。乙姫さまは、
 「先日は亀を助けてくれてありがとう。何日でもゆっくり遊んでいってください」と言いました。そして、今まで食べたこともないおいしい食べ物や飲み物をごちそうになり、タイやヒラメの舞いや踊りを見せてもらったり、すばららしい龍宮城を見物したりして夢のような日々を過ごしました。
  そういう生活が何日か過ぎて、太郎は、ごちそうや踊りにすこし飽きるとともに、地上に残してきた母のことが心配になって帰りたくなり、乙姫さまにおいとまごいをすると、乙姫さまは、
 「それはおなごりおしいことですが仕方がありません。それではこの玉手箱をさしあげます。この箱は、どんなことがあっても開けてはいけませんよ」と言いました。
  浦島は玉手箱をもらい、また亀の背中に乗って、みんなに見送られて帰りました。またたく間に故郷の浜に着きました。
  亀と別れて村にもどってみると、なんだか様子が違います。自分の家のあった所には何もなくて、草がぼうぼうと生えているだけです。母のことが心配で、あちこち探してみましたが、どこにもいません。会った人に尋ねても、誰も母のことも太郎のことも知りません。
  どうしてよいかわからなくなった太郎はぼんやりと海岸に座っていましたが、乙姫さまからもらった玉手箱に気づき、
 「これを開けたらもとの世界にもどれるかもしれない」と思い、乙姫さまとの約束も忘れて、玉手箱のふたを開けました。
 すると箱の中から白い煙がぱっと立ちのぼったかと思うと、太郎はたちまち白髪のおじいさんになってしまいましたとさ。
 おしまい。

 後からの付けたしや説明的な部分などもあるかもしれないが、私が小さい頃に聞いた昔話「浦島太郎」はだいたいこのような内容であった。それは、誰が語ってもあまり違ってはいないはずである。もちろん、細かい部分では相違するところもあるだろう。たとえば、太郎は母ひとり子ひとりではなくて両親(年老いた両親)と住んでいたと語る場合もあるだろうが、貧しくて若い漁師だというのは共通しているはずである。亀を子供たちから買って逃がしてやるのではなく、子供たちに生き物をいじめることがいけないことであるということを言い聞かせ自主的に放すように仕向けるというふうに語っている場合もある。その方が子供向けの昔話としては教育的だということは明らかで、そこには、何でもお金で解決しようとするのはいけないことだという親や先生たちの配慮がはたらいているのかもしれない。どだい、漁師が海に出るのにお金を持っているということ自体、考えてみればとても不自然なことだ。
 太郎が助けた亀に会うのは、海の上ではなくて浜辺であったりもするし、二、三日たってからではなくて次の日の場合もあろう。龍宮で過ごす期間も一週間とか二、三日とか日数をはっきり語っていることも多いが、基本的にはどれでも同じことで、ほんのしばらくの間を龍宮で過ごしたのだということを語ろうとしているのだとみてよいはずである。また、乙姫さまが土産にくれた玉手箱は、見てはいけないという禁忌(タブー)がついているのがほとんどだと思うが、なかには、そのタブーが「途中で開けてはいけません」というふうに開ける場所を限定するかたちになっている場合もある。いずれも、太郎が約束を破ったために老人になったのだと語ることで、この昔話を、「約束を破ることはいけないことだ」という教訓として語ろうとしているのだとみることができる。あるいは、乙姫が、「何かあったら開けなさい」と言って玉手箱を渡す場合もある。これは、開けることを約束の破棄と語るのではなしに、必然的な展開にすることで太郎の老衰との繋がりをつけようとしているとみてよいが、かなり特殊な語り口だといえる。ただし、開けてはいけない品物を土産に与えるというのは、かなり意地悪な、あるいは意図的な何かを感じさせるということはできるだろう。誰だって、開けるなといわれれば、中を覗いてみたくなるものだから。そういう面からいえば、「何かあったら開けなさい」という乙姫のことばは、やさしい神の立場としてみれば自然な台詞であるということもできる。しかし、この話では、そうではなくて「開けるな」ということが重要なのである。
 こうした語り口の細かな相違はあるものの、いつでもどこでも、「浦島太郎」の昔話は共通した内容で語られているのである。同じ話なのだから当然だといえば当然のことなのだが、日本中どこでも寸分違わない話が語られているというのは、昔話の世界ではそれほど当然のことではないのである。ふつう、昔話は地域的な特徴や語り手固有の語り口というものがあって、同じ話でも少しずつ違っているのがむしろ普通なのである。そもそも、主人公にれっきとした名前があって、しかもそれがどの地域でも変わらないというふうな昔話など他に例がないのではなかろうか。そして、この「浦島太郎」は、ちょっとこだわってみると不自然な部分の目立つ昔話でもある。
 今もふれたことだが、そもそも開けてはいけない品物をお礼に与えるということはどういうことなのか。開けてはいけない玉手箱は何の役にたつ品物なのか。その理由が示されれば納得もできるが、浦島が帰りたいと言ったら、唐突に開けてはいけませんと言って箱をくれるのである。これではまるで、帰ると言ったから意地悪をされているような感じがしてしまうではないか。
 また、発端の場面で子供たちがいじめている亀は小さな亀だと語っていたのに、太郎を龍宮に連れてゆく場面では大人を背中に乗せることのできるような大ウミガメであるというのも、変と言えば変なことだ。まあこれは、はじめは小さな亀だったのだが、太郎が龍宮に行くことを承知すると突然大きくなったとか、太郎が目をつぶると大きくなっていたとか語っているものもあり、そのように語れば昔話としては説得力をもってしまう程度の疑問だから、それほどこだわる必要はないのかもしれない。また、海の底に潜ってゆくのによく窒息しないものだと思うが、これも昔話だから許せるといえば許せることであろう。
 そうした許容限度を超えたもっとも大きな疑問点は、太郎はお金まで払って亀を助けてやったのに、その結果が「たちまちお爺さんになってしまいました」というのでは何とも割が合わないではないか、という点である。私たちは、昔話では、善いことをした人には幸運があり、悪い人には罰が下されると信じ込んでいる。そして、ほとんどの昔話はそのように展開するものなのだ。ところがこの昔話では、もっとも素晴らしいことをした貧しくやさしく働き者の主人公が、このように設定された主人公というのは必ず幸せになれるはずだという私たちの思い込みに反して、こともあろうに、何日かの龍宮での楽しい生活のあとにあまりにも無残な仕打ちを受けることになるのである。これは、昔話の約束ごとからすれば、常識を大きく逸脱した結末だといわなければならない。もちろん、亀を助けたお礼は、誰も行くことのできない龍宮へ行き、夢のような日々を過ごしたということで果たされているのだと読むこともできるかもしれない。そうだとすれば、玉手箱を開けて老人になってしまうのは、乙姫との約束を破った罰なのだということになる。事実、そのように「浦島太郎」を理解している人は多いのではないかと思う。しかし、それはあまりにも酷な仕打ちではないのか。最初から、開けたらお爺さんになってしまいますよというふうに言われていたのなら、開けるという行為が太郎の選択に任されることになるから、それはそれでかまわないけれども、太郎は何も聞かされていないのである。しかも、お礼の品がそのような恐ろしい力を秘めたものだなんて誰も考えはしないだろう。
 動物をいじめてはいけませんよ、動物にやさしくすれば善いことがありますよ、ということを子供に教えたいと思って「浦島太郎」を語る人はいるだろうか。あるいは、そういう母親がいたとして、この昔話を聞いた子供は、素直にその教訓を受け入れるだろうか。そんな子供がいたら、あまりにも単純すぎて恐ろしくなってしまわないだろうか。この話を動物愛護の教訓として聞いて、亀だけは助けないでおこうと考える子供のほうがよほど素直だと私には思えるのである。
 一般に<報恩譚>と呼ばれている恩返しの話は、昔話にもっとも多くみられる話型の一つである。報恩譚は大きく二つのパターンにわけられるが、その一つは動物報恩譚で、助けられた動物がきれいな女性に変身して主人公のところに来て嫁になるという婚姻譚として展開するもの、もう一つは善行をしたお礼に龍宮などに招かれ、不思議な力をもつ宝物をもらい、それを使って裕福になるというふうに致富譚に展開するものである。
 致富譚として展開する報恩譚としては、「笠地蔵」や「聴耳頭巾」「龍宮童子」などが有名なものだが、それらでは、動物の命を助けたりやさしい行いをした者が、「笠地蔵」のように神からお礼の品物をどっさりと授かって裕福になったり、「聴耳頭巾」のように動物の声(言葉)を理解することのできる不思議な頭巾など神の持つ呪宝をもらい、それを使って長者の病気を治したりしてたくさんの褒美をもらって裕福になるなど、やさしい振る舞いが主人公を幸せにするのである。これは報恩譚としてはもっとも単純だけれどももっともわかりやすい話である。もちろん、裕福になっただけではすまない場合も多く、「龍宮童子」では、龍宮から何でも望みのかなう呪宝をもらって帰り、それを使って大金持ちになるが、金持ちになった途端にやさしい心をなくし、あるいは妻が欲張りであったために、得た富を失い呪宝もなくなってしまうという結末を語る話も多い。そして、その理由は主人公の心変わりのためであって、昔話の展開としては素直に受け入れられるのである。なぜなら、昔話の主人公は極端に様式化されていて、貧乏人=やさしい、金持ち=意地悪で欲張りという図式が強固に安定したものとしてあるから、動物を助けるとかやさしい振る舞いをする人は、貧乏人と決まっているのである。ところが、呪宝のおかげで富を得た途端に貧乏人は金持ちに逆転してしまうのだから、その瞬間に性格もやさしさから欲張りに変貌してしまうのである。だから、与えられた幸運は主人公のそばから去っていってしまうことになり、元の貧乏な人間に逆もどりというわけである。しかし、だからといって殺されたり若者だったのに老人にさせられたりというような罰を受けることはなく、元の木阿彌ということになるだけだから、「浦島太郎」の場合の結末とはまったく違うのである。
 婚姻譚に展開する報恩譚は、助けてやる動物の違いによって、相手は蛇女房・蛙女房・蛤女房・狐女房などさまざまにあるが、基本的な展開は同じものが多い。もっともよく知られているのは木下順二の『夕鶴』で有名な「鶴女房」であろう。しかも、この系統の昔話には見るなというタブーが随伴しているものが多く、その点でも「浦島太郎」との共通性がみられるのである。ある時、貧乏でやさしい若者が傷ついた鶴を助けてやる。するとある晩、一人のきれいな娘がやってきて泊めてほしいと言い、そのまま嫁になって住みつく。そして、機を織るから絶対に見ないでくれといって部屋にこもり、すばらしい反物を織りあげる。それを男が売りにゆくと信じられないような値段で売れ、男は裕福になる。それが不思議で、女との約束を破って見るなと言われていた部屋を覗いてみると、女は実は鶴で、自分の羽を一本ずつ抜きながら機を織っていた。見られたのを知った女は自分の素性を打ち明け、鶴になって飛んでいってしまう、というような内容で語られている。ここでも、致富譚の要素が介入しているから、男は反物を売って金持ちになった途端にやさしさをなくしてしまうことになり、女との破局が訪れてくるというのは自然な結末として納得しやすい。また、異類婚姻譚は神と人との結婚を語る神婚神話に繋がったものだが、そこには神と人との絶対的な差異という問題がいつも関わってくるから、二人の関係が破局を迎えるというのもごく自然なこととして受け入れられてしまうのである。もちろん、男にとって愛する妻を失うということはもっとも大きな罰だというふうにもいえるが、私たちは、それは約束を破ったのだから仕方がない、美しい鶴女房とのすばらしい結婚生活が過ごせたのだし反物で富を得ることもできたのだしというふうに、この報恩から婚姻・致富を経たのちの破局を受容することができるのである。というより、二人の幸せな結婚が最後まで続いたとしたら、それこそ不自然なものになってしまうはずである。
 似たような展開をとりながら、「浦島太郎」の場合はやはり違うし、この結末は受け入れにくい。亀を助けてやったお礼が、いくら食べたことのないごちそうであっても、見たこともないすばらしい異境での滞在であったとしても、もっとも充実した時間であるはずの青年期と壮年期を犠牲にしなければならないというのでは、割が合わない。その龍宮での淹留が乙姫さまとの結婚生活であれば、もちろん、その場合には淹留期間は二、三日ではすまず何年間ということになるだろうが、それならば、浦島が亀を放生するという行為も少しは報われたといえるかもしれいない。それでも、何十年もの人生と引き換えるには代償が大きすぎてよほどの好き者でない限り応じることのできない話だ。しかも、報恩としての婚姻なら、異類女房譚がそうであるように、亀が直接美人に変身して果たすべきであり、助けてやった亀の変わりに龍宮の乙姫さまが登場するというのも解せないことである。
 どのように考えてみても、昔話「浦島太郎」に対する疑問点が消えることはない。そして、その原因は、報恩と老衰との結びつきの不自然さにあるといってよいだろう。たぶん、報恩とは関わりなく、太郎の<老>は、地上と異境(龍宮)との<時間の経過>の差異によってもたらされているのである。この点は、本書のこれからの展開において重要な問題になることで、論じる機会はいろいろ出てくるはずだが、ここで昔話に限っていっておけば、異境と地上との時間の差が問題になるというのは、昔話では極めて稀なことなのである。この「浦島太郎」を除くとほとんど見られないといってもかまわない。「見るなの座敷(鴬の浄土)」と呼ばれる昔話のなかに、異境であるウグイスの世界に入り込み、ウグイスの化身である美しい女から留守番を頼まれた主人公の男が、留守の間決して見ないでほしいと言われた座敷を覗くとウグイスがおり、それを見た途端に、今までいた屋敷は一瞬のうちに消えてしまい、それとともに男は老人になってしまったり、ほんのしばらくのことだと思っていたのに信じられないほどの長い時間が経過していたというように、異常な時間の経過を語る場合があるが、それは「見るなの座敷」という昔話においては特殊なものであり、この話にとって異常な時間の経過というモチーフは絶対的なものであるとは言えず、「浦島太郎」の影響によってあとから付け加えられたものだとみられるのである。
 一方、昔話「浦島太郎」から時間の経過を外してしまったならば、玉手箱の役割もなくなってしまい、太郎が老人になったという結末も語れなくなり、「浦島太郎」という昔話そのものが成り立たなくなってしまうのである。どう考えてみても、玉手箱に付されていたタブーを破棄して、異境と地上との時間差を被ることによって太郎が老衰するという結末は、この昔話にとって欠かすことのできない要素なのである。そして、その中で、異境訪問や呪宝や見るなのタブーは、どれも他の昔話に頻繁に登場するモチーフであり、昔話のキー・ワードとも言えるものであるのに対して、異常な時の経過という一点だけは、日本の昔話のモチーフとしては非常に稀なもの、あるいは唯一のものだという点は、大いに注目しておく必要がありそうである。昔話「浦島太郎」のもつ矛盾、善いことをしたのにお爺さんになってしまうという展開は、実はこの<時間の経過>という問題と関わっているに違いないのである。
 本書で私が考えようとしていることは、どのような道筋を辿れば、ここで述べた疑問点を解決できるのかという一点であるといってもよい。幸いなことに、浦島太郎に関わる文献は、奈良時代の資料をはじめ、各時代にわたって数多く遺されている。それらを緻密に辿ってゆくことによって、私たちがもつことになった昔話「浦島太郎」が成立してくる経緯はかなりの部分まで明らかにすることができそうなのである。
さて、どのような浦島像が私たちの前に現れてくるか、そして、前述の疑問点はどのように解決されてゆくのか、どうか私と一緒に「浦島太郎」の文学史をたどる旅に出かけていただきたい。それは、とても興味深い謎解きの旅になるはずなのである。







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